誰がために、きみは泣く


...01

 風が吹いている。
 それに気付いたのは、いつだろう。
 重たい体を起こそうとして、明広は小さく呻いてそれを諦めた。熱い瞼を抉じ開けると、黒い空が見える。端の方は少し明るくなって、薄紫。もうすぐ夜明けなのだな、とぼんやり思った。
 首を捻ってみると、すぐそこはアスファルトだ。路上で仰向けに倒れているのだとわかる。手や足に、冷たく堅いその感触が伝わってくる。背中だけは妙に温かくて、変な感じがする。と、聞きなれた声が自分を呼んだ。
「あっき、しっかりして! 今救急車呼んだから」
 どうやら声の主が、膝枕をしてくれているらしい。他のところは冷たい風と、殴打された痛みでじんじん痺れているのに、そこだけは柔らかく自分を包み込み、ふいに眠気が押し寄せてきた。
 そうだ。殴られたんだった。蹴られもしたし、あと何か、道具も使われた。何人くらいいたのだろう。暗い裏通りで、背後から急に襲い掛かられたから、わからない。
「アンタだから言ったじゃない、いい加減にしなさいって!」
 体を預けているそこが揺れて、誰かが何か言っている。そんなことは分かっていた。分かっていたけれど、やめられなかった。自分だって、何もこんな風になりたかったわけじゃなかった。
 ――彼のせいだ。そうだ、彼が悪いのだ。
「……夏時が悪いんだ、あいつが……」
 俺を振ったから。
 台詞は声にならずに、口の中で消えた。吹き付ける風が痛い。どこもかしこも痛くて、苦しい。それに酷く寒い。脱がされた服は、どこにいったのだろう。
 ……ああ、そうだ。
 あの日もこうやって風の強い、酷く寒い日だった。




 人ごみに紛れて、明広はさっきからずっと、彼を盗み見ていた。
 遠目からも、一年でさらに伸びた長身ですぐに分った。いつだって。彼は同じ部の、明広の隣のクラスの男達と話し込んでいる。女子にも男子にも人気がある彼の周りは、いつも人だかりが絶えない。いつまでそうしているのだろうと、少し苛立ってくる。あからさまな嫉妬を自覚して、俯く。熱くなった頬に触れる三月の風は、冷たいのを通り越して、少し痛いくらい。ふいに話が途切れて、こちらに気付いた彼の視線も。
「えっとあの、藤森、ちょっといい」
 見られただけなのに、声が上擦った。彼を見かけてからの一年間、声をかけたのはそれが初めてだったのだ。そして、最後でもあった。廊下ですれ違い、こちらが先輩なのでたまに会釈をされるくらいで、夏時は明広の顔も名前も覚えていなかった。
「え? ……俺ですか?」
 それはそう言って、戸惑ったように首を傾げた仕草で分かった。見上げながら、うんそう、と頷くと、彼もつられて頷いた。卒業式の後、謝恩会までの空き時間、幸い校舎の内外には、自分達三年生との別れを惜しむ生徒で溢れている。校舎の間から吹き付ける風に身震いをしながら、ふたりで体育館へ続く廊下を歩いた。普段はこうはいかなかった。夏時とは学年は勿論、部活も出身中学も違い、共通点など何もなかったから、この日に賭けていたのだ。
 だけれど、そんな初対面に近い状態で、よくそうして彼に声をかけられたものだと思う。それまで身近な女の子や、若い先生に向けられていた淡い感情とは全く違う、確かな情動に明広は突き動かされていた。
 初めて感じた恋愛感情。初恋だったのだ。彼と初めて肩を並べて歩いている、それだけで、既に舞い上がっていた。だから夏時がどんな顔をして歩いていたのか、周りの視線を気にしていたのか、そんなことは何も覚えていない。
 覚えているのは、東京よりも早くにやってくる桜前線が、例年より更に早く来て、校内に植えられた桜が満開だったこと。ちらちら彼を見上げると、強い南風に吹き上げられたピンクの花びらが、濃紺の制服や彼の髪にいくつもついていて、それが妙に色っぽくて、どぎまぎしながらも、目を反らせなかったこと。それくらいだ。
 少しは気にしていればよかったと思う。きっとその時既に夏時は、違和感や戸惑いで困った顔をしていたのだろう。
「急に呼び出してごめん。……あ、俺、深山明広。三年の、D組。部活は、バスケ一年で辞めてんだけど。藤森はサッカーだよな」
 人気のない職員駐車場に辿り着くと、まくし立てるように一方的に自己紹介をした明広に、夏時は黙って頷いた。多分、頷くしかなかったのだと思う。
「それでさ、俺、その、男が好きみたいで」
 本題に入ると、夏時はその時も、とりあえず頷いて見せた。それも頷くしかなかったに過ぎなかっただろうに、そんな彼の態度が、自分の気持ちを暗に肯定してくれているような気がして、それでもう何だか満足してしまって、そのまま勢いだけで、明広は言葉を続けてしまった。
「で、なんか藤森のこと、好きかも、……って。あはは」
 だけれどやっぱり言ってから赤面して、思わず笑って誤魔化した。途端動悸がして、下を向く。ばくばく言う胸に手をやって、学ランのボタンをぎゅっと握った。ふと見ると、夏時の制服のボタンがひとつ、取れかかっていた。第二ボタン。女子みたいな発想。それが欲しいと、思ってしまった。そうしてますます顔が熱くなる。
 だけれどそうして、気付いた。
 うるさい心臓以外の音が、周りに何もしない。
 顔をあげてみると、夏時は完全に顔を引きつらせてこちらを凝視していた。明広が首を傾げると、その目が泳いで、それから反れた。
「あはは、またまたあ、あははははは!」
 途端、こちらを見ないまま、彼は声をあげた。
「卒業式だからって、そんな、もう、ドッキリですか! 冗談言っちゃって、あはは」
 遠く体育館の方を見つめるその目も、そして声すらも、笑っていなかった。
 その時漸く、明広は自分のしたことを自覚した。
 男が、男に告白したのだ。……普通は引く。気持ち悪いに、決まっている。嫌がられる、きらわれるに、決まっている。
 心臓は相変わらず、ものすごい音をたてて鳴っていたけれど、火照っていた筈の頬は、いつの間にかこわばって、嫌な汗が額に滲んでくるのが分った。
「う、うんそう、ごめん冗談、……はは」
 決してこちらを見ようとしない彼に、そう言うしか、なかった。
「で、ですよねえ、うん、じゃあ俺、部活あるんでっ」
 言い残し、夏時は明広に背を向けて、あっと言う間にそこから走り去り、一度もこちらを振り返らなかった。
 ――夏時とは、それっきりだった。
 お互いの住所や電話番号を交換したりもしなかったし、卒業アルバムに寄せ書きをして貰うことも叶わなかった。当時はまだ補欠だったサッカー部で、その後レギュラーになれたかも、二年から始まる選択コースでどの科を選択したのかも、卒業後の進路も、何も知らない。
 進学が決まっていた大学への手続きが、その後どうなったのかも、当時の友達や、家族の様子も、……なにも。




 



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